帯広とは
帯広市 (おびひろし)は、 北海道 十勝支庁 管内にある 市 。 十勝支庁 所在地で、十勝地方の中心都市。
帯広の街は、官主導の 屯田兵 や旧幕府家臣による開拓ではなく、静岡県出身の 依田勉三 率いる 晩成社 一行が 1883年 (明治16年)5月に入植したのが開拓の始まりである。その後の開墾は 冷害 や 虫害 など苦難の連続であったが、 1895年 (明治28年)に北海道釧路集治監十勝分監(通称十勝監獄。現在の グリーンパーク 一帯)が開設されると、受刑者によって大通が整備されていき、市街地が形成されていった。
かつては十勝地方の農産物の集散地として栄えていたが、自衛隊の旅団化に伴う人員削減や官公署の統廃合、民間事業所の集約、周辺町村への人口流出に伴い人口の減少が続いている。
帯広の名の由来は、 アイヌ語 「オペレペレケプ」(川尻が幾つにも裂けている所)または「オベリベリ」(オペレペレケプの和人なまり)からといわれている。
地理
東北海道西端の十勝平野のほぼ中央に位置する。市街は計画的に整備されており、帯広駅を中心に碁盤目状の区画が四方に広がるが、大通公園から北東、北西、南東、南西に対角線方向の道路(火防線)が設けられている。
- 1891年(明治24年)北海道庁によって帯広を基点として帯広・十勝の植民地区画の設計を開始。
- 1892年 帯広市街地の基礎となる壮大な碁盤目状の街区整備が行われたことにより開発は本格化する。900間四方を大画、参百間四方を中画、さらにこれらを六分割して小区画とした。これを入植者に1戸分として貸付する。
- 1893年(明治26年) 最初から都市としての機能を備えるため、市街地の区画整理・市街予定地区画(殖民地区画)が行なわれ、1900 戸分を測設、その後順次市街地が開放されていく。現在の石狩通( 国道38号 )と大通( 国道236号 )の交差点と基点にして60間の大区画と中央部6間の道路用地をとり東西に2分しさらにそれぞれを6間間隔で10等分したものを162坪で1戸分とした。大区画を北海道開拓時代に札幌市で始めた区画割りを帯広にも適用、1ブロックは通りを除いて1辺60間(109m程度)の正方形で条と丁目で示し、さらに12間幅の火防線を配置するなどの近代的な都市整備を実施した。これは鉄道線予定地や停車場の予定地も見込んだ計画で、また当初から、斜めの道路と格子状の道路の交わる箇所に消防署を配置する計画となっていた。開拓当時計画され幻となった 十勝川河口都市 も帯広市と同様の殖民区画の都市計画形態であり道路配置はそっくりで、現代でも殖民区画の都市計画がかいまみられるのは珍しい。火防線が交わる交差点は6差路となり、交通事故もしばしば起きた。現在では交差点の手前で幹線と合流するように付け替えが行われている。
- 1896年 貸付停止となっていた十勝植民区画地を解除。
- 1897年(明治30年) 国有未開地の開墾入植を奨励するための「北海道国有未開地処分法」が公布され、終戦直後まで実施する殖民地選定事業によって大量移民が始まる。このとき入植地の区画は300間(546m)四方の中区画と、その中をさらに150間×100間の小区画6個に分け、この5町歩(ha)が1戸の割当てとなった。また圃場のまわりには 防風林 が設けられ、日高山脈から吹き降ろす強風対策のほか、入植当時は燃料対策としても保持されていく。これらが十勝の代表的な農地景観である300間区画の圃場と幾何学的に並んだ木々が溶け込み、新緑の春、秋の紅葉、冬の雪景色など四季折々の美しい景観を提供することになる。...






